がん研究の歴史の中で、RASほど長く、深く、そして悔しく研究された分子標的はありません。1982年にヒトがん遺伝子として同定されて以来、約40年にわたり「undruggable(薬で撃てない)標的」の代名詞であり続けたRAS。その壁が初めて崩れたのは、2021年5月、ソトラシブ(sotorasib、AMG 510、Lumakras)のFDA加速承認でした。本稿では、薬剤師(博士(薬学))の視点から、分子表面の物理的な困難さと、それを乗り越えた発見の系譜を整理します。
1982年——最初に見つかったヒトがん遺伝子
RAS遺伝子は、1982年に複数の研究室がほぼ同時にヒト膀胱がん細胞株からトランスフォーミング活性を持つ遺伝子として単離した、最初のヒトがん遺伝子です。
- Robert Weinberg研究室(MIT)
- Mariano Barbacid研究室(NCI)
- Michael Wigler研究室(Cold Spring Harbor)
それまでレトロウイルス由来のがん遺伝子(v-ras)は知られていましたが、ヒト腫瘍そのものから変異型がん遺伝子が分離されたのは初めてで、分子腫瘍学の出発点となりました。
RASのアイソフォームと変異頻度
ヒトには3つのRAS遺伝子があり、それぞれ膜局在やがん種特異性が異なります。
| アイソフォーム | 主な関連がん | 備考 |
|---|---|---|
| KRAS | 膵臓、結腸、肺腺癌 | ヒトRAS変異の大多数を占める |
| HRAS | 膀胱、頭頸部 | 比較的低頻度 |
| NRAS | 悪性黒色腫、AML | メラノーマで重要 |
KRAS変異の頻度(おおよその目安):
- 膵管腺癌: 約90%
- 結腸直腸癌: 約40%
- 非小細胞肺癌(腺癌): 約30%
これだけ高頻度の標的が40年間「撃てない」まま放置されたという事実が、いかにRAS創薬が難しかったかを物語ります。
RASの分子機能——GDP/GTPスイッチ
RASは小分子量GTPaseで、二つの状態を行き来します。
- GDP結合型(OFF): シグナル伝達は止まっている
- GTP結合型(ON): 下流エフェクターを動員し、増殖シグナルを送る
ON状態のRASが動員する主要エフェクター:
- RAF → MEK → ERK(MAPK経路)
- PI3K → AKT → mTOR
- RalGDS → Ral
がん性変異(G12、G13、Q61など)はGTP加水分解を阻害し、RASをON状態に固定します。すなわち、慢性的にMAPK/PI3K経路が活性化される状態です。
スイッチ領域とは
RASがGDP/GTP状態で構造を変える二つのループを switch I(残基30–40付近) と switch II(残基60–76付近) と呼びます。エフェクター結合面はこのスイッチ領域に集中しており、構造生物学者が長年「ここを止めたい」と願ってきた場所でした。
なぜ40年「undruggable」だったのか
RAS創薬の困難さは、しばしば次の四点に集約されます。
| 障壁 | 内容 |
|---|---|
| 分子表面が滑らか | 低分子が嵌まる深い疎水性ポケットが見当たらない |
| GTPへの超高親和性 | RASとGTPの解離定数はpicomolarオーダーで、競合阻害は非現実的 |
| 細胞内GTP濃度が高い | mM級のGTPに勝つことは事実上不可能 |
| 必須遺伝子 | 全RAS機能を潰すと正常細胞も致死、選択性が取りにくい |
1990年代にはファルネシル基転移酵素阻害(FTI)でRASの膜局在を阻止する戦略が試みられましたが、KRAS/NRASはゲラニルゲラニル化で代替されるため、臨床的恩恵は限定的でした。
Shokat(後述)は次のように述べています。
"RAS was the most studied and least understood oncoprotein." (RASは最もよく研究され、最も理解されていないがん蛋白だった)
2013年——Shokat研の発見
転機は2013年、UCSFのKevan Shokat研究室がNature誌に報告した一本の論文でした。彼らは KRAS G12C変異体 に着目し、ジスルフィドテザリングや共有結合フラグメントスクリーニングを用いて、switch II領域に隣接する新規アロステリックポケット(switch II pocket, S-IIP) を見出しました。
ポイントは三つあります。
- ポケットはGDP結合型でのみ顕在化する(OFF状態を狙う戦略)
- 12番目のシステイン残基(G12C変異で生じる)に対する共有結合で結合滞在時間を稼げる
- アロステリックにスイッチ領域の動きを固定し、エフェクター結合を阻害できる
つまり、「変異そのものをハンドルにして共有結合する」という発想で、変異特異的選択性と物理的結合力を同時に獲得したわけです。
製薬各社の創薬レース(2014–2021)
Shokat論文の翌年から、複数の製薬企業がKRAS G12C阻害剤の最適化に乗り出しました。
| 企業 | 化合物 | 商品名 |
|---|---|---|
| Amgen | sotorasib(AMG 510) | Lumakras / Lumykras |
| Mirati Therapeutics | adagrasib(MRTX849) | Krazati |
| その他中堅・新興 | 複数の臨床候補 | — |
ソトラシブ承認の流れ
- 2021年5月: FDA加速承認(KRAS G12C陽性NSCLC、既治療例)。試験名は CodeBreaK 100(CodeBreaK 101等のシリーズも展開)。
- 2022年1月: EMA条件付き承認
- 2022年4月: 日本で「KRAS G12C変異陽性の治癒切除不能な進行・再発の非小細胞肺癌」に承認
アダグラシブ
- 2022年12月: FDAが既治療NSCLCに対し加速承認。第II相は KRYSTAL-1 で報告。
- 日本でも開発・申請が進行(年次の最新状況は規制当局情報を参照してください)。
なぜG12Cだけ最初に撃てたのか
KRAS変異の中でG12Cが最初に攻略された理由は、化学的に明快です。
- 12番目のシステイン残基の チオール基(–SH) が、アクリルアミド等の電子求引性弾頭と特異的にMichael付加で共有結合できる
- 他の変異(G12D=アスパラギン酸、G12V=バリン、G12R=アルギニン、Q61H=ヒスチジン)は同じ共有結合戦略が直接は使えない
つまりG12Cは、変異がそのまま「化学的なハンドル」になるという稀有な幸運に恵まれていました。膵癌で多いG12Dや、結腸癌で多いG12V/G12Dにはこの戦略が直接通用しないため、別アプローチが必要となります。
効果と限界——患者アウトカムの現実
ソトラシブ・アダグラシブはいずれも、長らく治療選択が乏しかったKRAS G12C陽性NSCLCに新しい一手をもたらしました。一方で、効果は決して魔法ではありません。
報告されているおおまかな効果指標(既治療NSCLC、目安):
- 客観的奏効率(ORR): 概ね30〜40%
- 無増悪生存期間(PFS)中央値: 概ね6〜7か月
- 多くの症例で比較的早期に獲得耐性が出現
獲得耐性のメカニズムは多様で、二次的KRAS変異、RTK再活性化、バイパス経路(MET、EGFR等)、上皮間葉転換などが報告されています。一次治療や他剤併用での位置づけは現在も臨床試験で精査中です。
個々の患者さんでの適応・治療選択は、必ず主治医・がん専門薬剤師にご相談ください。バイオマーカー検査(KRAS G12Cの確認)が前提となります。
次の壁——G12C以外、そしてON状態へ
ソトラシブの成功は終点ではなく、むしろ「RASが動く標的だ」と証明したスタート地点です。次の挑戦は大きく三方向あります。
1. 他の変異への展開
- G12D(膵癌で最頻出)に対する阻害剤: 非共有結合型を含む複数候補が臨床試験段階
- G12V、G12R、Q61H などへの個別アプローチ
- 多くは2024–2025年時点で 日本未承認・治験段階 です。報道や学会発表で名前を見ても、現時点で処方できる薬剤ではありません。
2. ON状態(GTP-bound)阻害
ソトラシブ・アダグラシブはOFF状態を捕まえる戦略ですが、サイクリング速度が速い変異では効きにくい可能性が指摘されています。RMC-6236(Revolution Medicines、ON状態のRASをシクロフィリンA経由で阻害する「RAS(ON) multi-selective」候補)等が報告例として開発中ですが、こちらも 日本未承認・治験段階 です(試験名としてRMC-6236-001、RASolute 302等が公開情報として存在)。
3. 耐性克服と併用戦略
- SHP2阻害剤、SOS1阻害剤との併用
- MEK阻害剤、抗EGFR抗体との併用
- 免疫チェックポイント阻害薬との組み合わせ
薬学史としての意味
RASの40年は、「ターゲットが見えていることと、撃てることは別である」という創薬の根源的な真実を体現しています。一方で、Shokat研の一本の論文から10年弱で承認薬が誕生したというスピードは、構造生物学・フラグメント創薬・共有結合阻害剤化学が成熟したからこそ可能でした。
薬剤師の現場目線では、以下の点を押さえておきたいところです。
- KRAS G12C陽性NSCLCに対し、ソトラシブが日本でも使用可能(2022年4月承認)
- バイオマーカー検査が前提であり、すべてのKRAS変異に効くわけではない
- 肝機能障害、間質性肺疾患などのモニタリングが必要
- 併用薬(CYP3A基質・誘導薬、PPI/H2RAなど胃酸関連薬)との相互作用に注意
詳細な投与量・休薬基準・相互作用の運用は、最新の添付文書および医師・がん専門薬剤師の判断に従ってください。
おわりに
「絶対不可能」と言われた標的が動いた瞬間の重みを、私たちは忘れるべきではありません。1982年に最初のヒトがん遺伝子として単離されたRASは、4世代の研究者を経て、ようやくその表面の一部に薬を留まらせることに成功しました。残るG12D、G12V、Q61、そしてHRAS・NRAS変異に対する戦いは、これからが本番です。
この記事を読んでくださっている患者さんやご家族へ。新しい薬剤の登場は希望ですが、すべての方に効くわけではなく、また耐性の問題も残されています。最新の治療選択は、必ず主治医とご相談ください。
免責事項
本記事は薬学史・分子標的薬開発の理解を目的とした教育的情報であり、個別の診断・治療を提供するものではありません。記載した数値(変異頻度、ORR、PFS等)は文献の代表的な範囲を目安として示したものであり、試験デザインや患者集団により値は変動します。実際の治療選択・薬剤適応判断は、必ず担当医・がん専門薬剤師にご相談ください。承認状況・適応・用法は変更される可能性があり、最新情報はPMDAおよび各医薬品の添付文書をご確認ください。
参考文献
- Chang EH, et al. Human genome contains four genes homologous to transforming genes of Harvey and Kirsten murine sarcoma viruses. Proc Natl Acad Sci USA. 1982.
- Parada LF, Tabin CJ, Shih C, Weinberg RA. Human EJ bladder carcinoma oncogene is homologue of Harvey sarcoma virus ras gene. Nature. 1982;297:474–478.
- Santos E, Tronick SR, Aaronson SA, Pulciani S, Barbacid M. T24 human bladder carcinoma oncogene is an activated form of the normal human homologue of BALB- and Harvey-MSV transforming genes. Nature. 1982;298:343–347.
- Ostrem JM, Peters U, Sos ML, Wells JA, Shokat KM. K-Ras(G12C) inhibitors allosterically control GTP affinity and effector interactions. Nature. 2013;503:548–551.
- Canon J, et al. The clinical KRAS(G12C) inhibitor AMG 510 drives anti-tumour immunity. Nature. 2019;575:217–223.
- Hong DS, et al. KRAS(G12C) inhibition with sotorasib in advanced solid tumors (CodeBreaK 100). N Engl J Med. 2020;383:1207–1217.
- Skoulidis F, et al. Sotorasib for lung cancers with KRAS p.G12C mutation. N Engl J Med. 2021;384:2371–2381.
- Jänne PA, et al. Adagrasib in non-small-cell lung cancer harboring a KRAS G12C mutation (KRYSTAL-1). N Engl J Med. 2022;387:120–131.
- FDA Prescribing Information: Lumakras (sotorasib), Krazati (adagrasib).
- 医薬品医療機器総合機構(PMDA): ソトラシブ(ルマケラス)審査報告書および添付文書.
監修: 薬剤師(博士(薬学))